日本共産党の宮本顕治らが昭和8年12月23日から翌24日にかけて、小畑達夫・大泉兼蔵両氏に対して行った執拗且つ凄惨を極めたリンチ拷問殺人事件について、当時の新聞及び訊問調書等を用いながらその真相を炙り出す。併せて日共が喧伝する左記リンチ殺人事件に係る宮本らの釈放及び復権についても旧刑事訴訟法等の法令その他に依りその嘘を暴く。長文であるがぜひ一読願いたい。

生きているリンチ査問事件の主役たち 宮本顕治 - コピー

















(生きているリンチ査問事件の主役たち(S51年) 宮本顕治)


●鬼畜にまさる所業

宮本顕治らは東京市渋谷区幡ケ谷本町のアジトに於いて、荒縄、針金、硫酸、出刃包丁、斧、炭火、ピストルを用いて、被害者、小畑達夫氏に「ひと思いに殺してくれ!」と叫び声を上げさせるほどの残虐無残なリンチを加えた。つまりは、針金と細紐で手足を後手に縛り、猿ぐつわと目隠しをはめ耳には飯粒を練ったものを詰め更に頭に袋状のモノを被せぐるぐる巻きに縛り上げた状態で、殴る蹴るの容赦ない暴力、火鉢のタドンの火をくっ付ける、硫酸をぶっかける、錐で突き刺す等の拷問――小畑氏の亡骸を見た親族(弟)が地元紙の取材にこれ以上は書けないと絶句したほどである――が行われたのである。

上記の身の毛のよだつ様な凶行は日共が言い訳として喧伝している「査問」では断じてない。その証拠として共犯の一人袴田里見の公判調書に「大泉は査問時に猿ぐつわ等を外したが、小畑はそのままであった」と記されているのだ。これはスパイであるという自白を得る目的とは相反するのではないか。そもそも暴力を伴う詰問は許されないのだが、その詰問に答えられない状態にしておきながら、宮本らはどの様な自白を期待していたと云うのか。彼奴等の凶行は査問などではなく、人の皮を被った悪鬼どもによる拷問でしかない。全ての感覚器官を奪われた状態で、小畑氏は逃げるために壁に頭をぶつけて、壁を破ろうとさえしている。斯様な行動を採るほど小畑氏の恐怖と苦痛は耐え難いもので、現場は地獄絵図であった。宮本どもの行ったリンチは、まさに鬼畜にまさる所業である。

袴田里見(左) 逸見重雄(右)










(共犯者 袴田里見(左) 逸見重雄)


●獄卒も怯む峻烈なる拷問

以下は、袴田里見訊問調書よりの抜粋である。上段の文章と重複する箇所もあるが、読むことすら躊躇われる程の宮本をはじめとする外道どもの峻烈なる拷問の様が詳述されているので、あえて記載する。

/半裸の状態で針金を用い手足を後手に縛り、頭にも袋を被せ縛る

「(前略)小畑タツタト思ヒマスカ襯衣トズボン下丈ケニサレ前日同様足首ト両手ヲ後手ニ縛ラレ頭カラ大泉カ着テ居タオーバーヲ被セラレ其ノ上ヲ紐カ何カテグルグル巻ニ縛ラレ(中略)其ノ側ニ宮本ト秋笹トカ徹夜ノ査問テ眼ヲ充血サセ疲レタ様子テ寝転ンテ居リマシタ(後略)」「午前中カラノ全員テ大泉小畑両名ヲ代ハル代ハル査問スル頃カラ両名共座敷ヘ出シタ儘ニナツテ居マシタノテ此ノ時モ小畑ハ座敷ノ中央部当リノ所ニ手足ヲ細引ト針金テ縛ラレ頭カラオーバーヲ着セ其上ヲ何カテ縛ツタ儘座ハラセテアリマシタ 大泉ハ襯衣一枚ニズボンヲ穿イテ居タト思ヒマス ソシテ足首ト両手トヲ後テ前同様細引ト針金テ縛ハリ同人カ着テ居タ背広ノ上衣ヲ頭カラ被セ其ノ上ヲ紐カ何カテグルグル巻ニ縛ツテアリマシタ(後略)」(第十二回訊問調書)

/タドンの火を押し付ける、硫酸を除ける様が余りに滑稽である

「(前略)査問第二日目ノ取調ヘニ当ツテハ前日ヨリモ厳シク追求シ従ツテ夫レカ為メニ暴行脅迫ノ程度モ前日ニ増シテ居リマシタ 例ヘハ査問中秋笹カ用意シテアツタ斧ノ背中テ大泉ノ頭ヲゴツント殴ルト同人ノ頭カラ血カ出タ事ヲ見受ケマシタ 又秋笹ハ小畑ノ足ノ甲アタリニ火鉢ノタドンノ火ヲ持ツテ来テクツツケマシタ スルト小畑ハ熱イ熱イト云ツテ足ヲ跳上ケマシタ 夫レカ為メタドンカ畳ノ上ニ散ツテ処々二焼跡ヲ拵ヘマシタ 其ノ時私カ薬缶ノ水ヲ之ハ硫酸タト云ツテ脅シ乍ラ小畑ノ腹ノ上ニ振リカケマスト同人ハ本当ノ硫酸ヲカケラレタト感シテ手テ水ヲ除ケ様トシマシタ 其ノ動作カ余リ滑稽テアツタノテ夫レニ暗示ヲ得テ多分木島テアツタト思ヒマスカ真物ノ硫酸ヲ持ツテ来テ小畑ノ腹ノ上ニカケマシタ スルト段々硫酸カ滲ミ込ンテ来ルト見ヘテ痛カツテ居リマシタ又誰カカ錐ノ尖テ大泉ノ臍ノ上ノ方ヲコズキマシタラ大泉ハ痛イト云ツテ悲鳴ヲ挙ケテ居リマシタ(後略)」(第十四回訊問調書)

査問が行われた昭和8年頃の甲州街道幡ケ谷付近









(査問が行われた昭和8年頃の甲州街道幡ケ谷付近)


●当時の新聞の引用

事件の概要を伝える新聞記事から一節を引用する。「昭和8年12月23日、大泉・小畑らとの中央委員争いに敗れた宮本顕治らは、大泉を棍棒で打ち据え、半裸体とした全身を錐で突き刺し、その上から硫酸をかけた。」

当時の新聞









(当時の新聞「撲殺された小畑 鬼畜にまさる惨虐」の見出し)


昭和9年1月17日付け朝日新聞朝刊「赤色リンチ事件の怪」より凶行の一節が書かれた記事を次に記す。

「小畑惨殺の凶手、首謀宮本自ら揮う 残虐の極み・大泉の私刑」

宮本顕治が小畑惨殺に自ら凶手を揮ったという新事実は十六日被害者大泉兼蔵とその妻熊沢光子両人により詳述されたがその内容を総合すれば旧冬十二月二十三日夜、大泉、熊沢の両人は前後して幡ケ谷本町のアジトに呼び出された。二人がアジトに赴いた時には既に、小畑は殺害されていたが大泉が二階八畳の部屋に通されると部屋には、宮本はじめ秋笹、木俣らが居並んでいたが、いきなり宮本は大泉の胸倉をつかみ大泉の左右には秋笹、木俣鈴子の二人居り秋笹は手にピストルを持って騒げば胸板に撃ち込まんばかりの気配を示した。かねて強力をもって同志間に知られた大泉もその場に釘付けとなった。宮本はすかさずかれの利き腕をとってねじあげ針金で手足を縛り、猿ぐつわをはめ耳には飯粒を練ったものらしいのをつめ込み状袋のようなものを頭からすっぽりかぶせた。かくて身体の自由を完全に奪った宮本らは大泉を打つ殴る、きりで身体の所嫌わず滅茶滅茶に突き刺す、硫酸をぶっかけるという残虐の限りを尽くしたもので、もちろん大泉は意識を失い宮本らには小畑と同じく彼もこと切れたものと思わしめたが、意外にも翌二十四日朝に至り大泉は蘇生したのであった。(後略)


●事件の名称

事件の名称についてであるが、日本共産党リンチ拷問殺人事件が最も正鵠を射ているであろう。NHK・朝日新聞・毎日新聞は、日共の主張に迎合して「スパイ査問事件」と呼称しているが、これらジャーナリズムの名を語るクズどもは、スパイであれば査問という名のリンチをしてもよいと捉えられる様に意図的に事件名を改竄しているのである。中でも悪質なのはNHK(日本放送協会)である。曲がりなりにも公共放送を自称しておきながら日共の警告及び申し入れに唯々諾々と従うその媚びへつらった姿勢は、国民の知る権利に対する重大な背徳行為であることは明白である。彼奴等ほど虚言メディア(luegenpresse)という呼称が相応しいクズは居まい。


●袴田訊問調書より

/査問委員長は宮本顕治

「小畑大泉ヲ順次束縛シタ後宮本顕治カ査問委員長ノ格テ(中略)先ツ小畑カラ査問ヲ開始スルコトニナリマシタ」「先ツ小畑ニ対シ宮本カラ同人ニ対シテスパイトシテ査問ヲ開始スル旨ヲ言渡シ(後略)」(袴田里見 第十一回訊問調書)

/小畑氏殺害の様子

「宮本ハ其ノ片手テ小畑ノ右腕ヲ掴ンテ後ヘ捻チ上ケ其片膝ヲ小畑ノ背中ニ掛ケテ組ミ敷キマシタ逸見ハ前カラ座ツテ居タ位置ニ倒レタ拍子ニ被セテアツタオーバーノ上カラ両手テ小畑ノ咽喉ヲ押ヘテ小畑カ絶ヘツ大声ヲ張リ上ケテ喚クノテ其ノ声ヲ出サセナイ為メニ其ノ咽喉ヲ締メマシタ(後略」(第十二回訊問調書)

/死体はアジトの床下に埋めた

「(前略)其ノ報告ニ依ツテ私ハ小畑ノ死体ハ右アヂトノ床下ニ埋メラレタコトヲ知リ(後略)」(第十五回訊問調書)

/大泉氏には自殺を強要

「(前略)処カ其ノ監禁中大泉夫婦カ自殺ヲ申出テタノテ中央委員会テ協議ノ結果其ノ申出ヲ採用シテ自殺セシメル事ニナツタノテアリマス(中略)ドウセ小畑ノ様ナ運命ニ陥ルナラ他人ノ手ニカカツテ殺サレルヨリ自殺スルノカ増シタト恐怖ノ結果自殺ノ気持ニ為ツタト云フ考ヘ方ト今一ツハ何トカシテ逃走シヤウト考ヘタ揚句(後略)」(第十六回訊問調書)

/逃走や抵抗した場合は、足を折る

「(前略)逃走ヲ企テタリ抵抗シタリ或ハ外部ニ救ヲ求メルト云フ様ナ場合ハ其ノ時ノ状況ニモ依ルコトテアリマスカ或ハピストルヲ発射スルコトモアルテセウシ或ハ足ヲ折ル様ナ場合モアルシ(後略)」(第十八回訊問調書)

リンチが行われた幡ケ谷本町





(リンチが行われた当時の幡ケ谷本町 向かって右側は宮本らのアジト)


●国会での追求者

昭和49年7月の参院選を前にして、毎日新聞が行った春日一幸民社党委員長のインタヴュー記事から引用する。「共産党の素性と性格を知るためには、あのリンチ共産党事件そのものの真相を把握することなくしては、それを理解することは出来ないであろう。我々は、宮本委員長が小畑・大泉両氏に対して残酷無残なリンチを加えたことを当時の新聞で読んで肌に粟の生ずるような思いをしたが、その後、そのような重罪犯人は釈放されて、現在堂々と政治活動を行っている。人を殺し、その死体を、床の下に埋めるような者が、自由だ、民主主義だなどと政治を語る資格があるのであろうか。このようなことは政治以前のヒューマニズムの問題として許し難いことである。」

春日委員長 稲法相








(衆院本会議で日共リンチ事件を追求する春日一幸委員長(右)と答弁する稲葉修法相)


●袴田公判調書より炙り出される日共の嘘

以下に袴田里見の公判調書を抜粋して記す。日本共産党は「リンチ事件は特高のデッチ上げ」と主張するが、仮にその主張通り訊問調書は特高警察と検察庁のデッチ上げだとしよう。然しながら、袴田は、公判に於いて訊問調書の内容を「チカヒマス」と一部否定しており、何よりも公判中に "日本共産党の正義" を堂々と主張し、それが公的記録として残っているのである。特高のデッチ上げなどと云う言い訳が通用するはずもないのは日共自身も重々理解しているはずである。にも係らず、党員や支持者及び一般国民に対して「日本共産党は無実だ」というプロパガンダを垂れ流し続けているのだ。このような虚言政党が叫ぶ平和や護憲及び人道主義などという主張を信じる者は、知能薄弱者または日共による洗脳の被害者なのである。

/宮本は小畑・大泉をリンチ現場に連行する

「(前略)査問スルナラバ二人同時ニ査問シヨウト云フ事ニナリ私(注:袴田)ハ秋笹ト別レ宮本ニ遭ツテ此ノ事ヲ話シマスト、同人モ小畑、大泉ハスパイト云フ意見ヲ持ツテ居リマシタ(後略)」(第二回公判調書)
「問:(前略)警備隊ノ動員ハ宮本ト被告人トテ担当シ小畑、大泉ヲ当時両名ト連絡ノアツタ逸見ト宮本トテ査問ノ場所ニ連行スル事ニナツタノカ 答:左様テス」(第二回公判調書)
「我々ハ最初カラ少シ拷問テモスレハスパイノ事実ヲ自白スルモノト思ツテ居リマシタ」(第二回公判調書)

/宮本自らが当初のアジトを準備、小畑氏に査問を宣言する

「問:其ノ借入レニ失敗シタアヂトハ宮本カ準備シタノカ 答:左様テアリマス」「小畑カ二階八畳ノ部屋ヘ入ルヤ否ヤ宮本ハ小畑カ抵抗スルト思ツテカ同人ノ後方ニ身構ヘテ今日スパイノ嫌疑テ査問スルカラ静カニシロト宣言シタノテス」(第二回公判調書)

/拷問

「(前略)其処テ大泉モ小畑同様手足ヲ縛リ猿轡ヲハメ目隠ヲシテ其ノ上小畑ヲ査問スル際其ノ談話カ聞ヘヌ様ニスルタメ耳ノ中ニ飯粒ヲ詰メ(後略)」(第二回公判調書)
「(前略)宮本ヤ秋笹ハ前夜ノ徹夜ノ査問ニ疲レタト見ヘ目ヲ充血サセ(中略)私カ部屋ニ入ルト私ニ前夜ノ査問ノ様子ヲ話シテ呉レタノテアリマス」(第二回公判調書)
「問:小畑ノ腹ニ誰カ硫酸ヲカケタ者カアツタノテハナイカ 答:小畑ヲ査問中私カ側ニアツタ薬缶ヲ取リソラ硫酸ヲツケルゾト云ツテ中ノ水ヲ二、三滴垂シマスト小畑ハ大変狼狽シテ居リマシタカ其ノ中木島カ真物ノ硫酸ヲ瓶ノ蓋ニツケテ小畑ノ腹部ヘツケタノテス」(第二回公判調書)

/小畑氏殺害の様子

「宮本カ片膝ヲ小畑ノ背ニカケ同人ノ手ヲ捻上ケタノテ私モ起上リ小畑ヲ押ツケテ組敷イタノテスカ其ノ間木島ハ小畑ノ足ヲ縛ツテ居リマシタ 斯クシテ小畑ヲ皆テ押シツケテ居ル間小畑ハ絶ヘス大声ヲ発シテ怒鳴ツテ居リマシタカ最初私ト一処ニ同人カ倒レタトキ同人ノ頭部カ逸見ノ座ツテ居ル前ニ行ツタノテ逸見ハ片手テ小畑ノ首筋ヲ上カラ押ヘツケ片手テ小畑ノ頭ヲ振リナカラ声ヲ出スナ声ヲ出スナト云ツテ居リマシタ 然シ小畑ハ大声ヲ出シ死力ヲ尽シテ抵抗シ吾々カ押ヘツケテ居ル手ヲ跳ネノケ様トシタカ吾々モ夫レニ対抗シテ全身ノ力テ押ヒツケテ居ル中小畑ハウウーツト一声強ク上ケタト思フト急ニ静ニ成ツタノテアリマス(第二回公判調書)

リンチ事件のあった現在の同地(幡ケ谷本町)









(リンチ事件のあった同地(S51年):幡ケ谷本町)


●受難者面を強調する日共

昭和51年1月31日付け朝日新聞にて、宮本は「当時われわれは公然と活動する自由を奪われていた。したがって、ああいう時代の背景の中にあっては、ああいうこと(リンチ殺人事件)をやらざるを得なかった」と述べているのだ。日本共産党は事件当時――現在はその毒牙は隠しているが本性は変わっていない――、暴力によってプロレタリアートの独裁政権を樹立しようとした暴力革命集団だった。自分が受けた弾圧に対しては口を極めて反発し、自分に逆らう者に対する暴力については、これを正当化する。我が党が以前から指摘しているとおりこの暴力肯定と二面性が日本共産党の本質なのである。

スパイだからと言って査問することは、そもそも日共の大好きな日本国憲法に基づく基本的人権に対して許されることではない。現在に至ってもなお、日共側からは、私的拘禁や傷害致死罪――公判調書には罪状として殺人と記載されている――と認定される程の暴力的威嚇を伴う査問は許されるのかと云う問いに対しての説明は全くないのである。また、日本共産党及び宮本顕治は、小畑達夫氏殺害について一切反省も謹慎もしていない。小林多喜二が特高に殺された、拷問が酷かったとか受難者面を誇張するばかりなのである。小畑達夫氏には一指も触れなかった、勝手に頓死したと未だに言い張っているのである。


●小畑達夫氏の死因は外傷性虚脱死

小畑氏の死因については、確定判決では傷害致死と認められる見解に立っており、一方、宮本をはじめとする日共側は、小畑氏の異常体質によるショック死と主張してきた。その根拠は、小畑氏の死因を "打撲による脳振盪" とした最初の死体鑑定書(村上次男、宮本学而作成=宮本鑑定書)を覆して "ショック死" とした第二の鑑定書(古畑基作成=古畑鑑定書)にある。しかし古畑鑑定書によれば、ショック死はショック死でも "外傷性ショック死" であり、異常体質によるものとは質を異にすることが明瞭なのである。宮本は戦災で古畑鑑定書も焼けて、もう存在しないものと考え、自分の都合の良いところだけ出していたのだ。しかし幸運なことに――宮本にとっては不幸であろうが――古畑鑑定書は焼失を免れていたのである。

昭和51年1月の衆院本会議で、三百代言の称号を恣にした日本共産党書記局長(当時)不破哲三を筆頭に日共は未だに「あれは異常体質によるショック死であって、リンチによる傷害致死ではない。係る事件は、特高警察のデッチ上げであって、その判決は、天皇制裁判によるデタラメな判決だ」と云って、これを全面的に否定している。しかし、彼奴等が拠り所とする古畑鑑定書には「本件ノ被害者小畑達夫ノ死ハ外傷性虚脱死(外傷性ショック死ト言フモ可)デアルト推定セラレマス」と明確に書かれているのである。この点については、日共は未だに沈黙を決め込んでいる。

不破哲三書記長と日共幹部








(特高のデッチ上げだと国会で主張する不破哲三(通名)本名:上田健二郎(右)と、渋面でうつむく共産党幹部議員)


●小畑・大泉以外のリンチ事件

日共の暴力的・独善的な側面は、何もリンチ事件に限ったことではない。昭和7年10月6日の川崎第百銀行支店襲撃事件、いわゆる大森ギャング事件など数え切れない重大犯罪を重ねているのである。また、昭和25年の日共分裂時代、昭和30年の総点検運動の際にもリンチ査問は行われている。

昭和50(1975)年12月21日付しんぶん赤旗日曜版「文春一月号の "日本共産党の研究" 古びた反共デマ宣伝のくり返し」では、二ページ全てを使っての特集記事が掲載された。それによると戦前の日本共産党の大物の検挙は殆ど全部特高警察のスパイの手引きによるものであるという。小畑達夫・大泉兼蔵両氏に対するリンチ拷問殺人事件以外にも日共の行ったリンチ事件は多数あり、それらのうち、大串雅美氏(中央印刷局福責任者)、大沢武男氏(中央財務部員)、波多然氏(江東地区ピューロー員)の査問・リンチ事件を次に記す。

大串雅美氏のリンチは、昭和8年12月21日、宮本・袴田らによる小畑・大泉リンチ殺人事件の僅か三日前のことである。その理由は、赤旗を印刷していた町の印刷所16カ所の一斉検挙をスパイの手引きによると断定したためである。赤坂区台町の田中実方の地下室に監禁し、麻縄で縛ってピストルで脅しながらスパイであることを認めさせようとした。

大沢武男氏は、小畑・大泉リンチ事件から二週間後の昭和9年1月12日に行われた。大沢氏は当時、財務部長であった小畑氏から信頼されていたことからスパイと断定された。1月12日、池袋の難波明方に監禁され言語に絶するリンチ・査問を受けたのである。木島隆明(中央委員候補)、冨士谷真之輔(党中央財務部)及び難波明が大沢の手足を縛り、ピストル、小刀、金槌等をもって脅しスパイであることを認めさせようとした。このリンチは1月12日から17日まで実に六日間、ぶっ続けに行われ遂に17日に力尽きた大沢がスパイであったことを承認させられ、釈放されたのである。

波多然氏は日本共産党が合法政党となった後、六全恊後、宮本が書記長となった第七回党大会(昭和33年)に中央委員に選出された最高幹部の一人であったが、昭和9年1月17日、小畑達夫氏に同情的であったと云う理由でスパイと疑われ、無残なリンチ査問を受けることとなった。すなわち、1月17日、葛飾区小松川町の加藤亮方に手足を縛って監禁され、木島隆明、加藤亮、金季錫、西村万里子らにより、ピストルで脅され、焼け火箸を顔に押し付けるリンチを受け、スパイの事実を認めるよう約一カ月も酷い暴行を受けた。しかし彼は最後まで、死を覚悟してまで、スパイを自認することを拒否した。そして遂に「反党的行動」があったことを無理矢理承認させられ、謝罪文を書かされて2月12日、実に27日ぶりに釈放された。

その後、波多氏は、昭和38年3月8日、「(前略)日本共産党には誤りを正すための唯一の保障である党内民主主義は、もはや破壊されており、党規約で保証された言論の自由は全くないのである。党内に留まって党を改善する条件は発見できない。われわれは、悩み抜いた末、日本共産党を離党する。」という離党声明を発表した。その当時、波多氏はスパイ・リンチ事件を暴露する手記を発表しているが、その中で次のように述べている「私は(リンチ事件の)被害者の一人であり、戦後も生き残って活動してきた一人である。だが実際は「嫌疑」ではなく、最初からスパイであることの告白の追求であり、ピストルと短刀による脅迫、血の通わぬほどの手足の縛りと息をつけぬほどのサルグツワ、合着で冬の寒さに数カ月――数日ではない――耐え忍んだリンチ事件であった。殺して埋める計画さえもっていたのだ。私は幸い死を免れたが、死ななかったのが不思議である。十日以上も仮死状態に陥り、数か所に取返しのつかぬ傷害を受けた。」

当時の雑誌記事








(当時の雑誌記事「断末魔の私刑 こはこれ地獄絵巻」)


●見せかけの反省と本音の断罪

宮本は事件後六年経った昭和15年4月の公判で、反省している素振りを装う党の「建前」を述べているが、当時の赤旗の記事には、小畑・大泉両氏に対する残酷な殺人・リンチに対する反省や批判は何処にも見られない。逆に、この事件を「スパイ挑発者に対する勝利的闘争」とか「これによって勝利の第一歩を踏み出した」と賛美しているのである。一例を引くと、昭和9年1月10日付け「赤旗」は第一面全頁が「警察的天皇制に対する革命闘争の一環として、挑発政策に対して集中的に闘争せよ!」という「国際共産主義日本支部 日本共産党中央委員会」の声明で埋め尽くされている。「今やわが中央委員会は党史上いまだかつて見ざる最大のプロレタリア英雄主義を発揮して、挑発者の二元凶(注:小畑・大泉両氏のこと)を打倒した。それにひき続いて、中央より細胞に至る全党の全機関、全組織を挙げてスパイ挑発者に対する執拗なる追撃戦が開始された。片野(注:大泉氏のこと)、古川(注:小畑氏のこと)の断罪による勇敢なる逆襲闘争は階級敵を狼狽に突き落とした。(後略)」

小畑・大泉両氏を断罪する赤旗








(小畑・大泉両氏を断罪する「赤旗」)

上に掲載した赤旗の記事に於いては、当時の新聞に「鬼畜にまさる所業」とまで言わしめた凄惨なリンチ殺人事件に対する反省は欠片も見出すことは出来ない。反対に「党中央の名を以て小畑達夫、大泉兼蔵の両氏をプロパガードル(内部攪乱者)として除名し党規に基づき極刑を以て断罪するものである」との文章が読み取れる。


●宮本釈放の嘘

宮本顕治は治安維持法でやられたと言うが、併合罪の不法監禁、傷害致死、死体遺棄についてはだんまりを決め込んだままなのである。

昭和8年12月23日、東京幡ケ谷の民家で、大泉兼蔵、小畑達夫両中央委員に対する官憲スパイの疑いで、宮本顕治、袴田里見、秋笹政之輔、逸見重雄中央委員(当時)らによる査問委員会が開かれた。その査問の過程で、種々の凄惨を極めたリンチが加えられ、小畑達夫氏は翌12月24日に死亡した。その二日後の12月26日、宮本は逮捕され、昭和19年12月5日、東京地裁で、治安維持法違反、不法監禁致死罪、死体遺棄など刑法違反、銃砲類取締法施行規則違反等により無期懲役の判決を受け、大審院(今の最高裁に相当)に上告したが、昭和20年5月4日棄却となり刑が確定した。しかし宮本は、終戦直後の昭和20年10月9日、共犯の袴田らより早く、病気理由のため刑の執行停止を受けて収監されていた網走刑務所から釈放されているのだ。

宮本が網走刑務所を釈放されたのは「これ以上、刑の執行を続行する時は、一命を危うくする恐れがある」という吉田実刑務医官の診断書を以て釈放されているのである。しかし当時の宮本の健康状態はすこぶる良好で、この診断書は虚構のものであったことが明らかなのである。その理由を次に述べる。

刑務所では受刑者の健康状態は時々調べている。その時の診断記録に寄れば宮本は当時とても良好な健康状態であったことが記録されている。もちろん病棟への収容記録などないのだ。係る診断書には腸チブスだとか肺結核とかの病名は書かれているが、何年も前の既往症として記録されているのみなのである。

では何故、宮本は釈放されたのか。網走刑務所で、刑務所と刑務医官と検察庁との共同謀議の上で、虚構の診断書が作成され、それに基づいて刑の執行停止が行われたと断じざるを得ない。病気であるのならば、まず医療食を提供する等の措置を執らなければならず、その上で刑務所内の医療施設に収容する。それでも尚且つ危険があると思われる時には、刑務所外の医療施設に移送して治療を受けさせる。そして、刑務所外の医療施設で治療してもなお、生命が危ういと判断された時に、初めて刑の執行停止をすることができるとなっているのである。左記については次段に条文を記している旧監獄法第四〇条及び旧刑事訴訟法第五四六条に依って厳格に規定されているのだ。だが宮本に関しては、これら治療に類する記録は一切ないのである。

旧監獄法第四〇条「被収容者疾病ニ罹リタルトキハ医師ヲシテ治療セシメ必要アルトキハ之ヲ病室ニ収容ス」

旧刑事訴訟法第五四六条「懲役、禁錮又ハ拘留ノ言渡ヲ受ケタル者ニ付左ニ掲クル事由アルトキハ刑ノ言渡ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ言渡ヲ受ケタル者ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ検事ノ指揮ニ因リ刑ノ執行ヲ停止スルコトヲ得,一 刑ノ執行ニ因リ著シク健康ヲ害スルトキ又ハ生命ヲ保ツコト能ハサル処アルトキ」

宮本に関しては上記の法律に依ることなく、一躍していきなり釈放されているのであるから、明らかに関係法令に違反した行政措置なのである。また、公文書上は、健康上の理由で釈放されている事実を再度強調したい。日本共産党が喧伝しているように、宮本は決して政治犯として釈放された訳ではないのである。

残虐無残なリンチ拷問殺人事件を犯した宮本であるが、網走刑務所に下獄したのは昭和20年6月17日、出獄したのは同年10月9日、この間僅か3カ月22日間しか入獄されていないのである。その後はこの件は不問に付され、最期は豪邸に住み天寿を全うしている。これでは小畑氏の霊は泛ばれないだろう。

網走出所後の宮本顕治
















(網走刑務所出所後の宮本顕治)


●宮本と他幹部との処遇の違い

袴田は昭和20年10月19日に出獄した。ところが宮本は袴田より十日も早く網走刑務所を同年10月9日に出獄しているのだ。これは戸沢検事正が仙台の刑務所を見に行ったら、岸勝らが居るので「なんだ、あの連中まだ居るのか。宮本も出ているのに」と刑務所長の宮内氏に云ったら、「治安維持法のほうは釈放を言ってきたが、傷害致死の併合罪のほうはそのままで、何も言ってきていない」つまり釈放は出来ないと云う。それで早速「じゃ君、執行停止の上申書を出してくれ。司法当局へは検事正として、おれが上申する」と云って、それで言ったらすぐ執行停止となり、岸勝、田島善幸、袴田里見、二見敏夫は出てこられたのである。

治安維持法下の思想犯の検挙風景










(治安維持法下の思想犯の検挙風景)

宮本は治安維持法違反よりも一般刑法で重罪人として処罰されているのであるから、思想犯の象徴である編み笠を被せられたのかは疑問が残る。


●宮本復権の嘘

宮本は、昭和20年10月9日に出てきて、しかも復権証明書原本には "原刑はないものとする" と書かれているのである。治安維持法は無いものとなるが、傷害致死等の併合罪は、そうなるはずはない。では何故、宮本だけが手続きが違うのかは謎のままなのである。また公民権をはじめとする資格の回復(復権)も、ポツダム勅令第七三〇号(昭和20年12月29日公布)により、東京地裁が昭和22年5月29日に行ったとされている。しかしこの点については全くのマヤカシであり、春日一幸民社党委員長の衆院本会議での追求点となった。

宮本への刑の執行停止や復権は、勅令第七三〇号を以てなされたと日共は主張するが、同勅令は治安維持法等に関する政治犯に対しては釈放及び権利回復を認めているが、一般刑事犯はその対象外に置いている。したがって、昭和20年12月29日に勅令第七三〇号が公布された後も、宮本は復権されなかった。宮本が復権されるのは、その後1年5カ月を経た昭和22年5月29日なのである。勅令第七三〇号で復権対象外の者がどうして、この時に復権出来たかは、この問題が再燃した当時(昭和51年)の稲葉修法相でさえ奇妙奇天烈なことだと国会審議の場で述べている。東京地検から交付を受けたとされる復権証明書も、如何なる法律に基づいての措置か未だに不明なのである。

S25年レッドバージ前夜 代々木の共産党本部を取り囲む警官隊







(S25年レッドバージ前夜 代々木の共産党本部を取り囲む警官隊)


●占領軍と共産党の共謀

宮本と同じ日共幹部で、警察官を刺殺した田島善幸、神戸で銀行員を二人殺した二見敏夫、熱海で党大会を開催する時に刑事をピストルで襲った岸勝、及び袴田里見この四名の復権は昭和22年4月に、減刑、仮釈放、復権と正式な手続きを踏んで為されている。(当時、恩赦は昭和20年10月17日の太平洋戦争終結恩赦と、昭和21年11月3日の憲法公布恩赦の二回)

一方で、宮本は病気による刑の執行停止である。この曖昧さと二重基準は何故起きたのか。これは、日本共産党がデレビヤンコ(ソ連の占領軍司令官、対日理事会(連合国最高司令官の諮問機関、米・英・ソ・中で構成)のソ連代表)を使って、司法省に圧力をかけたのではないか。デレビヤンコについては、日共・ソ連に不都合な日本共産党関係書類を全部、占領軍命令で、警視庁、司法省等から引き揚げさせたとの噂もある。デレビヤンコの圧力か、日共党員が同省の書記あたりに居るので、それにやらしたか、または日共党員が勝手に同省に入って原本に書いたのか、解明すべき問題はこの点にある。(田中清玄氏:元日本共産党中央委員長談)


●国会は殺人と死体遺棄を認定

昭和五十一年九月二十八日 衆議院会議録第五号

矢野恂也氏の質疑に対する稲葉修法相の答弁

(前略)この議場で春日民社党委員長の質問に答えたとおりであります。そして、この件は裁判所で有罪の判決が確定しており、右判決原本の写しは、当時のお約束どおり、前国会で、国会の要求により国会に提出済みであります。お暇のときに内容をよくごらんおき願いたいと思いますが、概略を申し上げれば、昭和八年十二月下旬ごろ、宮本氏らは、当時の日本共産党中央委員であった小畑達夫氏外一名にスパイの容疑があるとして、これを査問するため、外数名とともに右小畑氏らを監禁して暴行を加え、右小畑氏を外傷性ショック死により死亡するに至らせ、その死体を床下に埋めるなどの事実が認定されています。

このような事実関係について、これを争う主張のあることは、各位御承知のとおりでありますが、社会一般の常識からすれば、確定判決がある以上、判決に示された認定事実が存在したと考えるのが通常であろうと思われるのであります。

質問の第二は、勅令七百三十号の趣旨、その効力などに関する御質問でございますが、昭和二十年十二月二十九日、勅令七百三十号、すなわち、政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件、それの第一条本文の規定は、人の資格に関する法令の適用については、将来に向かって刑の言い渡しを受けなかったと同様に取り扱うというのであって、これにより、過去の犯罪事実がなくなったり有罪の確定判決があったという事実そのものまでが否定されるものではありません。このことは、前国会で私が、これによって全部御破算、帳消しになるのではないと申したとおりであります。

最後は、宮本氏の資格回復に関する法務省の調査結果でありますが、これはお約束どおり調査いたしました。結果を申し上げます。宮本氏のように、治安維持法違反の罪に当たる行為のほか、刑法犯にも当たる場合には、勅令第七百三十号の適用が除外されていることは御指摘のとおりであり、宮本氏は同勅令に該当するものとして資格が回復したのではありません。同氏につきましては、昭和二十二年四月末、連合国軍最高司令部より司法省に対し特別の指示があり、これに基づいて判決末尾に付記をしていわく、刑の言い渡しがなかったものとみなす、ということにして資格回復の措置がとられたものであります。この総司令部の特別指示は、当時のわが国の置かれた立場上、占領下でありますから、超憲法的かつ超法規的効力を有するものであったのでありまして、宮本氏の資格回復は一にかかって連合軍司令部の超法規的命令によるものであります。

以上が判明した事実でございます。したがって、前国会で申し上げましたこの関係は、奇妙きてれつ摩訶不思議というものではありませんで、まさに司令部のおかげで助かったと申して差し支えありません。(拍手)

第7回日本共産党大会(S33年)この時から宮本時代の到来が始まる








(第7回日本共産党大会(S33年)この時から宮本時代の到来が始まる)


●ウィキペディアの嘘

現在では、ネット検索によりこの事件について調べられる方も居られようが、ネットの情報には宮本と日本共産党擁護のために大幅に歪曲された情報が散乱している。一例では、もっとも検索のヒット数が高いと思われるウィキペディアの記述は、嘘で嘘を塗り固めたと断じてもよい酷さである。ウィキペディアによると「(前略)査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定されたが、戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったためGHQから司法省に対し指示があり、判決は無効となり資格回復の措置がとられた。(後略)」と記されているが、釈放及び復権については、先に述べたとおり勅令第七三〇号による政治犯の釈放とは全く関係ないと云う点を今一度強調しておく。


●宮本顕治らの遺族及び日共は再審請求をせよ

日共の喧伝している様に小畑達夫氏の死が異常体質に因るショック死であり、宮本らのリンチは "特高警察のデッチ上げ" であるならば、宮本らの遺族及び日本共産党は、ただちに名誉回復のための再審請求をせよ。係る再審請求は、治安維持法の違反については復権したが、傷害致死等の併合罪については正式には復権などしていないからである。再審請求は犯罪者の汚名を着せられた者が、その汚名を晴らす唯一の手段であり当然の権利なのである。それを行使しない又はそれが出来ないのは、「本件はないものとする」と云うだけで、何もなかったものとし黙りを決め込んでいる日本共産党に「正義」なぞ有りはしないことの証明なのだ。万一、我が党の指摘が違うと云うのであれば、今からでも遅くはない。宮本らの遺族及び日本共産党は、再審請求を行え。

ふくよかな志位和夫







(偉大なる宮本議長路線を受け継ぐ志位和夫氏)

年収1600万円以上でアゴの判別が付かないほどふくよかな姿からは、支配階級から搾取され虐げられ続けた労働者階級に親身になって寄り添う慈愛に満ちた姿勢が滲み出ている。


●自己都合の憲法解釈

日本共産党リンチ殺人事件について、日共は "スパイ査問事件" の呼称を用いない場合は、全て党と宮本顕治に対する「名誉棄損」であると考えている。このため、日共は、昭和50(1975)年12月発売の文藝春秋で再燃した宮本らによる日共リンチ殺人事件に関して、翌昭和51年1月8日付け各紙に掲載された「週刊文春」(新春特大号)の見出し――「宮本リンチ事件は『反共デマ宣伝』か」――を問題視したのである。そして各新聞社が "リンチ事件" の呼称を用いた広告を「そのまま掲載したこと」に対して抗議したのだ。この一点を以てしても、日共が表の顔として声高に「守れ!」と叫ぶ表現の自由の侵害であるが、日共は抗議するだけに止まらず、今後の掲載に関しても「事前警告」の申し入れを行ったのである。次いで昭和51年1月27日、衆院本会議で民社党の春日一幸委員長が、共産党リンチ殺人事件について代表質問をしたところ、その国会報道にあたって、またしてもマスコミ各社に "リンチ事件" の呼称を用いないよう申し入れを行ったのである。

上記の件は、日本国憲法第二十一条第一項「(前略)言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」に対する明らかな挑戦である――日共は現行憲法制定時に徹底的に反対した唯一の政党であるとの言い訳も出来ようが――。加えて、曲がりなりにも公党を名乗る日共がリンチ事件を犯した団体であると云う事実を知ることは「公共の福祉」に資する事柄であり、それを隠蔽しようとすることは「知る権利」への不当な介入及び圧迫なのである。このこと自体が、この団体の非民主的な素性を奇しくも明示していると云えるであろう。しかも日本共産党は、憲法を死守すると宣っている自称護憲政党なのであるから、これら憲法で保障された権利を侵害することは許されない反党行為・反憲法行為ではないのか。これらの申し入れ及び警告は、我が党が指摘してきた日共の自己矛盾と二面性を裏付ける証左と云えるだろう。

リンチ事件には黙りの志位と小池










(リンチ事件には黙りを貫く志位和夫と小池晃)


●共謀罪設立に反対する犯罪者集団

日共の二面性が顕著になるのは「共謀罪」に関しても同じである。テロや組織犯罪から国民の生命を守るために必要なこの法案に、平和と命を守ると主張する日本共産党が猛反対しているのである。組織犯罪処罰法改正案が浮上した翌日の「しんぶん赤旗」は一面ほか数面が、共謀罪設立反対の記事で埋め尽くされた。組織的な犯罪集団に対して科せられる同法案に、日本共産党が反対の姿勢であることは、この欺瞞に満ちた党の本質を現しているではないか。破壊活動防止法と同様に組織犯罪処罰法が自身に適用されると思い込み激しく反対する様は、小畑・大泉両氏他を対して行われた "スパイ査問事件" は、惨たらしい集団リンチ・拷問・殺人事件であると自覚しているからであろう。下記の大森ギャング事件を報じる新聞にも「思いがけないテロの陰謀暴露」との見出しが読み取れる。資金調達のためには銀行強盗も辞さない犯罪者集団、それが日本共産党なのである。

銀行ギャング記事













(大森ギャング事件を「共産系が資金集めの犯行」と報じる新聞)


●日共の本質は紛れもなく暴力

以上述べてきたように、日本共産党の暴力と欺瞞及び自己矛盾に満ちた毒蛇の如き――または邪龍と呼んでもよい――正体を知れば、日共が自称する平和の党云々が如何に嘘で嘘を塗り固めたものであるのかが誰の目にも明らかであろう。もっとも、演説会で現在の国家体制を断じ(自己否定・意識の白紙化)、しんぶん赤旗を読み込み(新しい価値観の植え付け)、党員勧誘や署名活動に奔走させられている(新しい人格の強化及び固定)と云う洗脳の三段階が完成している党員及び支持者には、ここまでの文章自体が「日共への謀略」と断罪されることだろう。

豪邸に住み且つ「防衛」と称して党員を下僕の如きに酷使してきた宮本顕治や不破哲三は、日共が云うところの大衆の敵である支配階級そのものではないのか。莫大な私有財産を蓄えながら共産主義を語ってきた彼奴等にとっては、年間数千円の報酬で赤旗を配る後期高齢者の党員など使い捨ての歩駒なのだ。左記の矛盾に満ちた日共の階級制度と、日共リンチ殺人事件から見えてくる日本共産党の本質は紛れもなく "暴力と権力志向" なのである。斯様な団体が国権を掌握したならば、国民に対する苛烈な弾圧が為されるのは想像に難くない。日本共産党は、小畑達夫氏をはじめとした犠牲者の霊に詫びよ。そして即刻解散せよ。




参考資料:「誰も知らない日本共産党のホンネ」 大石悠吾 雷韻出版
       「リンチ共産党事件の思い出」 平野謙 三一書房
       「日本共産党の研究」 立花隆 講談社
       「日共リンチ事件と宮本委員長の内幕」 産経新聞出版局
       「衆議院会議録第五号」 国会会議録検索システム
       「官報 第二九二五号」 国立国会図書館